アレヤコレヤの散文 あたまのなかの引き出し ソレトこれがつながる

キャガプシーすごい論 その1 2017年

前回のブログ記事を受けての続き)

 

『キャガプシー』の一番の見せ場の後のラストシーンは、

どエライ級の「戯曲」「演出」「演技」でした。

 

人間社会からの抑圧

男性への、頼れる存在への依存

一人のさみしさに耐えられず誰かにいてほしい

 

すごいこの部分

32才の男が描く 女ツミが背負うもの

 

今年の初めOuBaiTo-Ri(さひがしジュンペイさんプロデュースの名前)

『グレートフルグレープフルーツ』作、末原拓馬

でも娘と父親のシーンが逸品で、

「あなた 誰かの娘なの?」というくらい生々しくて

 

きっと、性差にとらわれていないの

男 とか 女 とか 男らしい とか 女らしい とか 猛々しい とか 女々しい とか

 

なのに不思議なのは、驚くほど暴力的なの

(末原作品が語られる時、この部分は注視されない) 

必ず作中に暴力を振るうシーンがある

(しかも、後ろから 鈍器なのか石なのか、振り下ろすの結構、ためらいもなく 仕方がないって感じで)

特に女性(性)に対して、演ずるのはわかばやしめぐみさん

 

・グレートフルグレープフルーツ ヒカリ

・ヴルルの島 トリツキ(命拾いさせてくれたのに

・ルドベルの両翼 ムグ

 

観ていて、余りにも呆気なく打ち倒すから物語は進んで行くんだけど、結構ショッキング。

こうも重なると何故なのか気になってしまう。

 

『ヴルルの島』から(トリツキ ヒカリ ツミ)

女性の描き方に厚みがあると思う

強い 可愛い 凛としてる

だけじゃなくて、これまでの人生がみえるの

 

もちろん、演ずる

わかばやしめぐみさんの技量と推察、観察力、感受性、表現力の賜物

 

 

『キャガプシー』を初回観たあとの直ぐの感想は、本戯曲内でも発っせられるように、

グロテスクで悪趣味

だなと、あと過去のおぼんろ作品の破片を所々に見出だすな。個人的に「世界は美しい」と今は言えなかった。

 

 

『キャガプシー』を上演するための特設のテント

“キャガプシーシアター”

そこは実はキャガプシーショーの舞台のテントなのです。

好んでキャガプシーショーを見に来たわけじゃないのにていよく、ショーの観客に仕立て上げられるの。辛かったな。

クリーチャー、妖怪、異人種、違う見た目、違う中身

大多数があるから少数があるのか

小があるから大なのか

 

 

でもね、びっくりしたの二回目の観劇時、ハイライトシーンで一緒にバタバタバタ バタバタバタってしたくなる衝動を抑えるのが大変だった。

ちょっとだけ、無理にでも笑顔になろうと思えた。

 

悪趣味な観客に仕立て上げられもするし、

壊されて朽ち果ててゆくキャガプシーにもなれたのだ。

テント内にいる沢山のキャガプシー

 

お分かりになるだろうか?

最高に上質で上等の体験

 

 

 

 

 

太陽の明るさがないとモノのカタチも動きも色も見ることはできない

夜は人工の光がないと真っ暗闇

 

当たり前のことを再確認させてくれた時間

通常の演劇空間つまり、劇場がいかに芝居を心地良くみせるために腐心しているか

そこがいかに非日常を演出するための空間か

 

この特別な特設テントがその当たり前に対して挑戦し得た答

特別な場所じゃなくても芝居は演劇は物語りはできる

逆説的な証明のしかた

 

特別な場所を創って

特別じゃなくても出来る

ということ